信じて食べた『気仙沼産サンマ』
『今が旬!気仙沼産のサンマ』の店頭表示、今しか味合えないという限定特別要素にグッと視線を釘付けにされると、新鮮な容姿に惹かれた。すぐさまに焼かれた時の匂いと煙、大根おろしにカボスを絞った脂ののった身を口に入れた時のことが思い出されると、胃袋はもう引き返すことはできなくなっていた。その晩の食卓、期待は裏切られることなく幸せな旬を味合うことができた。
旬の味に満たされ「あぁ〜美味しかった」という喜びだけではなく、なぜか「あぁ、期待ハズレじゃなくてよかった」という感想となってしまう。「うまい!安い!旬だ!限定!特別!などなど…」消費を煽る言葉に警戒はしてはいるものの、真実とかけ離れたモノが商品として多くなってきているためなのだろうか。気持ち良くスッキリ「美味しかった」とだけ言わせて欲しい……。
今日までは商品を吟味することがあっても、自己紹介「私はこういう商品です」といった類の言葉には、信じて疑うことなく素直に受け止めてきました。ところが近年の食品偽装表示等の「不正・偽りの発覚」ニュースの影響でしょうか。綺麗事を並べたCMなど、諸々素直になれない場面に出会います。
信じて安心できる買い物がしたい
意図された不正や偽装は無論あってはならないことですが、『今が旬!気仙沼産のサンマ』と表示されていることを疑ったとしても、店頭でその真贋を見極めることはできません。残念ながら、食べて美味しくなければ次回はその店で買わなくなるくらいの、悲しい事後の抵抗しかできないのです。幸いにして、たとえそのサンマが美味しかったとしても、『本当に気仙沼産なの?』と、ふつふつと湧き出る次の疑問に、私の味覚では判断、回答を得ることはできません。結局は、言われるがままに、すべてを信じることしかできないのかもしれません。
「美味しい魚が食べたい」→「旬のサンマか!」→「気仙沼産!どんな味なのだろう?」→「生食用!」→「新鮮そうだね」→「食べてみよう」→購入、調理→「あ〜美味しかった!」「生食用で新鮮だから焼いてもおいしいね!」「気仙沼産は脂がのっているな」「また食べたい」と、商品の自己紹介を復唱するかのように納得を感想にし、商品に偽りがなかったことを確信した時にストーリーは完結し、はじめて満足感が得られるのではないでしょうか。
疑いを持ちながらの「確認→クリア」作業は、とても窮屈であり、知らないうちにもストレスが溜まりそうです。信じたい、安心したいという想いがつのります。
リピートは求めない、逃げ切る商売
失敗したら次回は買わなければ良いという諦め方も一つの選択肢ですが、売る方のスタンスもリピート客は必要なく、一回限りでも構わないからとにかく商品を売りきる、といった販売手法が多いのも最近の傾向にあるように思われます。そういった商品は、本質や内容はそこそこであったとしても(そこそこの品質であることがキモ?)、見栄えがよく、グレードの高い商品のように振る舞い、有名人をセールスに起用し、購入意欲を囃し立て、お手頃価格で消費者を惑わします。
商品の金額が高い安いに関係なく、欲しいと思うものの全てを信じることができ、希望が満たされ、満足感が得られれば、どれだけ幸福な気持ちが増すことでしょう。大げさかもしれませんが、消費の低迷、経済政治への不信、少子化などの問題の根の深いところには「目先の安売りと不正と偽装による信頼の低迷」があるように感じられます。
『〜だから』は安心への一歩?
消費者は警戒しつつも、「有名なお店だから」「ちゃんとしたホームページだから」「有名人が宣伝しているから」「商店街にもお店を出しているから」「多くの取引があるようだから」「販売事例が多いようだから」「おしゃれでかっこいいから」などなど、消費を後押ししてくれる「〜だから」といった言葉で自分の中にある不安や疑いを消しさり、信じるための理由付けをしていかないとなかなか買い物ができない世の中になったのかもしれません。
看板に偽りあり
何年か前になりますが、契約農家から朝取りの新鮮野菜を仕入れ、有機農法無農薬野菜を販売するいわゆる「自然食品のお店」の食品偽装問題がニュースになりました。その店長は近くの安売りスーパーで通常のお客と同じようにスーパーの店頭に並ぶ野菜を買って持ち帰り、自分の「自然食品のお店」の店頭に並べていたようです。
看板に偽りがあっても、問題が露見するまでは誰も疑うこともなく、「有機農法無農薬野菜」として高い金額を支払って「やはり有機農法の野菜は美味しい」と食べていたのだと思われます。残念で悲しいですね。
建築業界にも「看板に偽りあり」を体験。宣伝手法と登録認定に翻弄される
建築業界の中でも、耐震偽装のような問題がありましたがもう少し短なところでも「看板に偽りあり」と思われる消費者は気をつけなければならないと感じたことが先日ありましました。それは建築に関わる、とある工法を提供する会社との仕事でわたくしが実体験したお話です。(以後F社と表記)
その工法内容は合理的であり、一度機会があれば使ってみようかと興味を持つことができた工法でした(以後F工法と表記)。もちろん採用に際しては、資料を確認したり、現場で使ったことのある職人さんや設計者に話しを聞いてみたりもしましたが特に悪い評価もありませんでした。専門誌などのメディア媒体などでもよく見かけ、そこそこに知られるF工法でもあったので採用することにしたのです。その結果は、残念ながら最後までF工法によるしがらみに翻弄させられることになったのです。
何かがおかしい;1 「社内のシステムで設計していますから仕方ありません。」
仕事を進めていく内に判明、このF工法の担当者とその上司にあたる方は、設計図面を読み取り検討することができない方々でした。その会社の専用CADにある、決められたパターンでの入力に終始し、不要な部材や余分なモノが組み込まれた図面でも正しい図面として承認図が送られてきました。
無駄を気にしなければ、そのまま建物に組み込まれても、差し迫った影響はないところが商売のミソ。こちらとしては、お客様に不必要な無駄なモノの費用を負担してもらいたくないので、当然訂正を求めます。しかし、まともな回答が得られず時間を要して同じような不具合のある図面を承認図として、幾度も提示されることを繰り返しました。度重なる訂正にこちらも気持ちを抑えつつ「承認を求める前に、しっかりとチェックしてもらえませんか」と伝えると、「これまでも特に問題なく施工してきました。指摘される内容については専用のCADで入力しているので仕方ありません」と開き直り、半ばこちらが何かクレームを付けているかのような匂いさえ感じさせる対応をしてきたのです。間違っていないと思い込んでいる方に訂正を求めるのはとても手間がかかり、大変でした。理想のシステムも、実現できなければ机上の空論「絵に描いた餅」となっていることに気がついていないようでした。とてもつかれました。
工事に必要な基本となる図面の打ち合わせのやりとりで、このような認識をもつF社の対応を見ると、おそらく他の設計者の大半からは、不具合を指摘する声を聞くことがないのかもしれないと感じました。F工法を採用した設計者が、設計の基本的な納まりや部材の使い方を理解せず、F工法に委ねて依存した(洗脳された)設計者ならば、内容を理解しチェックして、不必要で過剰な箇所を指摘することはないのでしょう。無駄な部材の費用はお客様の負担となってしまっているのでしょう。とても残念です。
F工法そのものが商品として理想的で完成されていたとしても、それを扱う人たちが考えることをおこたり、マニュアルやシステムに依存すると、商品だけが一人歩きをして、「絵に描いた餅」となってしまいます。このような状態では、無駄な部材と余分な手間を費やし、必要のない費用を払い、そのまま工事が完了していくことは明らかです。何も知らずにお客様はその負担を工事代金として強いられることになるのです。必要以上の部材を多用し単価を積み上げ、費用を嵩ます作戦なのかもしれません。検証、吟味をおこたり専門知識を持ち合わせないお客様に対して「特殊な工法だから高くなるのは仕方ありません」と正当化し平然と言いきる。だれも気付かないならば、気付かれないようにコストを乗せていっても構わない、と言われているようにも感じられました。知らない人は言いなりにされていれば良いのでしょうか。
何かがおかしい;2 技術者がいないのに登録施工店の認定?
F工法を利用するには、その工法の講習会を受けて、年会費を払って登録した施工会社を利用しなければなりません。独自工法の専売登録の形態をとっています。F社からは、いくつかの登録店の紹介を受け、その中の一つX社に依頼することになりました。そのことでX社の大工等の業者も一式セットとなることに不安と抵抗はありましたが、F工法をやり慣れた施工会社ならば仕方がない、そんなにひどい業者もいないだろうと自分に言い聞かせたところもありました。
ところが契約後いざ工事が始まると、X社の施工管理担当は新人でF工法を扱ったことがない、肝心の業者もF工法は初めてというのには呆れました。
「F工法の利用を認定登録施工会社に限定している意味がないではないか…」
「F社は講習を受講し、登録代と年会費を納めてさえいれば良く、施工会社の施工力や品質管理能力までは見極めていなかった。」
「施工会社といっても名ばかりで、現場を理解し、経験のある工事管理をする人間は在籍せず、外注契約で現場を動かしていた。」
「F社は現場を一度も確認にくることはなく、登録施工店に一任していた。」
ある程度認知もされていたので「まさか」という思いもありますが、信じることにした私の判断が甘かったと反省させられました。
昨今、どこの会社も仕事につながることを期待し、高い年会費を支払って登録認定店になるところが多くあります。あるいは、独自の資格制度を設けその取得と肩書きを得るために高い講習費用を負担していたりもします。一般の方にとってみれば、「認定店だから」「資格があるから」等のもっともらしい肩書きや資格、認定店という文言に、なぜか一つの安心材料として認識させられてしまいます。しかしこれらは、経験値や技能といったものと直結し、イコールとはならないと考えたほうが安全と考えます。独自認定のもっともらしい資格はいくらでもつくれます。資格に惑わされないでください。あくまでも実施能力をみなければなりません。また、そういった資格称号を得ることで称号に依存し、身の丈に合わない甲冑を纏い、着飾るだけで実施戦力にならない姿を見せられているようにも感じます。
いかがわしさがあればもちろん手は出さないのですが、法に触れることをしているわけでもなく、当人たちにはいずれも「看板に偽りあり」という自覚さえないのです。そういった偽りや不正、宣伝広告が蔓延する中でも、信じないことには何も前に進めることはできません。何をどう信じて行けばよいのか、我々は業界に身を置いている分だけ、一般の方よりは情報を持っています。ガイドとしてお力になれることもあると考えていますのでご相談ください。
何かがおかしい;3 施工品質が保たれなくても品質は保証された。
施工品質報告書が最後にF社から出されるとの説明を受けていましたが、建築竣工時にも発行されませんでした。工事が終わってしまえば関係がないとでもいうのか、施工会社のX社に問い合わせても「すぐにやります」と言って結果8ヶ月以上対応がなく、再三の催促を続けてようやく動く始末です。
契約時、着工時と不信なことが蓄積されてきたこともあり、現場の施工品質を施工会社に委ねることができないと判断し、独自に品質を管理してきました。そのため、施工上の問題はなく竣工させることができ、施工上の安心は独自に得ることができました。施工会社による品質管理がなされていないこともわかっていたため、果たしてどのような対面で品質報告書がだされるのかという思いで報告書を待ちました。
施工管理をしないでも施工報告書の作成はできる?
竣工後約10ヶ月経って出されてきた施工品質報告書は添付写真にも不足が多く、F社のサンプルで見せられた報告書にはおよばない、形式ばかりのものとなりました。
さらに疑問を抱かされるのには、その報告書にある不足ばかりの数少ない写真をみると、その現場にはほとんど顔を見せず、施工管理と呼べる仕事もしなかった施工会社X社の担当者は、その報告書に必要な決められた添付写真を撮るために現場に時々来ていたようなのです。通常業務として現場の品質管理をした中で、全体の施工状況を良く見て、施工結果として一部の写真を残していた訳ではなく、あくまでもフォーマットにある写真材料を撮るために来ていたことがわかりました。施工品質報告書としてみれば写真があれば、いかにもしっかりと全体を確認し、すべての施工品質が保たれているものと錯覚を起こします。実態は報告書に貼り付けるために撮ったほんの一部分の状況のみしか見てはいません。
建物は作るよりも、必要書類の体裁を整えることが大事?
報告書を作ることがメインとなった本末転倒のお粗末さですが、F社も自ら発行する施工品質報告書のフォーマットに惑わされ、記載事項が満たされ、写真があることで内容を疑うこともなく、施工がしっかりとなされているとX社の報告を承認し、品質報告書を公のものとして発行がなされました。
F社も残念ながら書類を廻すことにとらわれて本質が見失われている事態に気がついていないようです。仕事の効率化や標準化を計れば、安定した仕事を供給できるものと考え、フォーマットや雛形を作るのでしょう。その雛形を作るのは、その会社の経験のある人に任されることが多く、限られた人たちで作られるものと考えられます。
その雛形は偏った経験値で作成されていないか、実施できるものとして精査されたものなのか、また経験の浅い人や現場で作業を行う方々へ周知させる教育が行き届いているのか、文字や図面の羅列になっていないか、量は多くないか、わかり易い内容になっているのか、といったところに問題があるようです。理屈を並べた立派な読み物としてのマニュアルはできても、使われなければ意味がありません。
現場の状況は個々に異なりますし、現場の人間の年齢や経験値にも幅があるわけです。図面以外に多岐にわたる資料やマニュアルを渡されても読みながら仕事をすることはできません。図面と同様に作る人に意図が伝わるように資料は用意しなければならないのではないかと考えます。
昨今では標準仕様書も雛形が用意され、それを丸ごと添付して、内容を理解もせずに、必要のない事項をそのままに、的外れな書類もそのままで「標準仕様書を付けてあるでしょ、その通りにやっておいて」と言い去る設計の方も多いようです。頼るものができると考えることもしないで、雛形にとらわれて、本質がどこかへ行ってしまうことが最近の仕事では良く目にします。
別の現場の写真で偽装
別の案件の話ですが、施工管理写真は施工をしたことの証として記録を残すためのものですが、写真の撮り忘れがあったときに報告書の体裁を整えるために、他の現場の写真を使いまわしているケースを見たことがあります。現場をみることなく、現場職人へ任せっきりの施工管理者も多くいます。施工記録をとることもありません。見た目の良い振る舞いをする会社では商品を売る、仕事をとることだけが重点となり、根幹となる建築の構築過程がおろそかなケースが多く見受けられます。成果品は、会社の見栄え同様に写真映りが良く、見栄えがすれば良いといった中身の無い物となるのです。しかし、一般の方も含め、綺麗に仕上がってしまえば中身や隠蔽される箇所がどうであったかなどわからなくなってしまうのです。
信じて買うために
ついつい見た目や雰囲気にのまれ、惑わされてしまいがちです。誠意を持って対応してくれるものと考えたいところですが、相手に悪意はなくとも商売の術中にはまらないように、警戒して過ごさなければならない世の中であることは確かではないでしょうか。
「この設計で家は建てられるのか」「追加工事は発生しないか」「工事の品質は本当に大丈夫なのか」「施工店が言うことを信じて良いのか」「この建物は買っても大丈夫なのか」などなど、
家に関する不安を感じたら、Pプラスへのご相談を一度考えてみてください。私たちは、できる限りお客様の立場になって考え、お役に立つ情報を提供できると信じています。